Uninterruptedly’s diary

ストレスフルな日々の垂れ流し

信念って

「信念」

持つのはいい。大事かな?とも思う。
それって「自分の?」「誰かに認められるの為のもの?」
疑問に思う信念設定の人がいる。

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自分の信念に固執するための論拠を見いだす努力に終始する―ジェームス・ロビンソン教授
電脳筆写『心超臨界』

理屈どおりに動く人間は、めったにいるものではない。たいていの人は偏見を持ち、先入観、嫉妬心、猜疑心、恐怖心、ねたみ、自負心などにむしばまれている。自分たちの主義、宗教、髪の刈り方、そして、クラーク・ゲーブルが好きだとか嫌いだとかいった考え方を、なかなか変えようとしないものだ。もし人のまちがいを指摘したければ、つぎの文章を読んでからにしていただきたい。ジェームス・ロビンソン教授の名著『精神の発達過程』の一節である。

「われわれは、あまりたいした抵抗を感じないで自分の考え方を変える場合がよくある。ところが、人から誤りを指摘されると、腹を立てて、意地を張る。われわれは実にいいかげんな動機から、いろいろな信念をもつようになる。だが、その信念をだれかが変えさせようとすると、われわれは、がむしゃらに反対する。この場合、われわれが重視しているのは、明らかに、信念そのものではなく、危機にひんした自尊心なのである……。“わたしの”というとなんでもないことばが、実は、人の世のなかでは、いちばんたいせつなことばである。このことばを正しくとらえることが、思慮分別のはじまりだ。“わたしの”食事、“わたしの”犬、“わたしの”家、“わたしの”父、“わたしの”国、“わたしの”神様――下に何がつこうとも、これらの“わたしの”ということばには同じ強さの意味がこもっている。われわれは、自分のものとなれば、時計であろうと自動車であろうと、あるいはまた、天文、地理、歴史、医学その他の知識であろうと、とにかく、それがけなされれば、ひとしく腹を立てる……われわれは、真実と思いなれてきたものを、いつまでも信じていたいのだ。その信念をゆるがすようなものがあらわれれば、憤慨する。そして、何とか口実を見つけ出してもとの信念にしがみつこうとする。結局、われわれのいわゆる論議は、たいていの場合、自分の信念に固執するための論拠を見いだす努力に終始することになる」。

人を動かすD・カーネギー創元社、p171 「誤りを指摘しない」」
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「信念自体が間違っている」という思考に行き着かないんだな。
危険。
人は変わる。
状況も変わる。
思考も変えないと。
自分がやってきたことを自分で否定するのはしんどいけど、
そのままじゃ信念通りの人生になったとしても幸せは感じないと思うよ。

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